新見化学工業株式会社物語
新見化学工業は、群馬県桐生市に籍を置く、歯科関連の様々な製品を手がけるメーカーです。その存在は、桐生地域の中では珍しいと言えます。
群馬県桐生市は、1300 年続く、織物の産地です。関ヶ原の戦いで東軍に足絹を収めたこと、その後天領となり栄えたこと、明治維新後の織物の輸出業の隆盛、大正時代の燃糸機の発明と産業の発展、そして、戦前までの着物文化これらは、桐生が織物産地として、歴史の表舞台に近いところで活躍していた証でした。
そういう地域の中に、どのようにして新見化学工業は生まれたのでしょうか。ここでは数回に渡って、新見化学工業の物語を紐解いていきたいと思います。
新見化学工業の前身は、1939年(昭和 14 年)に東京都田区で設立された歯科用医療品の輸入・販売業「守屋化学工業株式会社」でした。
当時の東京は、いくつかの戦争と特需により、急速に発展していきます。東京湾周辺の地域には、小さな工場が立ち並び、様々な会社が設立されていました。特に工業系の発展は著しく、出荷額で見ても、10年で10倍以上の成長をしていた地域もあります。大田区の平和島の埋め立てが開始されたのもこの時期であることから、その成長の勢いに土地が不足していたことがわかります。
そのような状況の中、守屋化学工業(株)は、戦争が終わるわずか5ヶ月前、1945年(昭和 20 年)3月に現在の
本社の場所に守屋化学工業(株)桐生工場を設立しました。1941年に勃発した太平洋戦争をはじめ、当時の社会的な状況を背景に、すべての機能と業務を東京から桐生へ疎開することで、引き継ぐことにしたのです。
当時の記録はわずかしか残っていませんが、当時の様子を残す写真を見ると、その場所は、元繊維工場でした。並びにある牛腸家、細谷家(共に現在も当時の姿で残っています) が繊維関係であったこと、そして写真に写るのが、繊維関連工場に見られるノコギリ屋根工場であったことから、繊維関工場の跡地に移って来たと考えられます。
戦争中の桐生市は、鋳物や鉄製の織機は供出となり、織物業者が廃業に追い込まれる一方、市民や企業が献金し、飛行場を建設して陸軍に献納する「愛国飛行場」計画(帝国飛行協会を中心に300箇所の建設計画)の元、有力な織物業者の呼びかけで、現みどり市笠懸町に「桐生愛国飛行場」を建設するなど、戦争の渦の中に巻き込まれて行きます。そのような状況を背景に、群馬県桐生市に守屋化学工業株式会社が開業したのです。
正式な記録は残っていませんが、新見化学工業株式会社の初代社長である新見弥平氏が守屋化学工業株式会社に入社したのも、ちょうどその時期だったようです。新見弥平氏は、明治 29年(1896年)生まれで、戦前はバンクーバーにいました。守屋化学工業が桐生に疎開してきた時にはすでに日本に帰国していましたが、弥平氏は、ワシントン大学で薬学を学び、英語も出来て、薬剤師の資格を所持する、高い教養を持っていました。さらに、弥平氏の妻である吉子(きちこ)も名家の出身で、二人はバンクーバーで出会い、バンクーバーで結婚・入籍しています。そのような弥平氏ですから、高待遇での入社で、早い段階から役員にも就任したようです。
一方、守屋社長は、桐生(というより田舎)が苦手だった ようで、会社と共に群馬に移り住むことはありませんでした。 そこで、当時役員だった新見弥平氏は会社の株を買い上げ、 昭和 24 年、弥平氏が 53 歳の時、守屋化学工業株式会社の 社長に就任するのでした。(つづく)
